臼杵や竹田地方のご家庭で、薬用として育てられていたカボス。
大分の代表的な農産物となるために、どんなきっかけがあったのでしょうか?
今回は、大分がカボスの生産地として成長するまでの歩みにせまります。
このページの目次
栽培面積が4倍に!きっかけは昭和中期の減反政策
カボスの栽培面積が爆発的に増えた原因は、1960年代後半の、国による減反政策でした。
減反政策とは
減反政策とは、米の生産量が増えないようにするための政策です。
戦争中、食糧不足に対応するため、米は政府がまとめて買い取り、消費者に配給していました。
ところが、戦争が終わって20年ほどたったこの頃、米の生産量は増えているのに、パンのせいで消費量が減り、政府が買い取った米が大量に余るという事態が発生しました。
そこで政府は、米の生産量の上限を設定したり、他の農作物への転作を推し進めたりして、それらを達成した農家へ補助金を与えることにしたのです。
転作で急増したカボス畑
大分県も例に漏れず、他の農作物への転作を推し進めて行きました。
そのときに選ばれた1つが、すでに臼杵・竹田地方で愛され、各家庭の庭に1本はあったと言われるカボスです。
特産品として価値が高く、また山間部でも育てられるカボスは、山が多い大分で新しい畑を作るのに最適でした。
こうしてカボス畑は数を増やしていき、減反政策が始まってからわずか4年間で、4倍もの栽培面積を持つようになったのです。
カボスを盛んに!発展を助けた3大イベント
カボス畑が増えても、誰も買ってくれなければ意味がありません。
高品質なカボスが安定して栽培され、全国にその名が知られるようになった背景には、3つの出来事の力が大きく関わっていました。
大分県カボス振興協議会の設立
カボスをひたすら盛り上げるために、県と市町村、農業団体、カボス生産者が一致団結して生まれたのが、大分県カボス振興協議会です。
1972年に設立されてから現在まで、生産量の増加や安定化、流通の改善にPR活動など、カボスに関するあらゆる事業を実施しています。
まさしく、カボスを大分県の特産品へと育て上げた、中心的組織です。
一村一品運動
1979年から大分県の各地域で行われた一村一品運動は、カボスという名を全国へと広めました。
この運動のポイントは、それぞれの地域が「自主的に」知恵をしぼって活動していたことです。
特産品作りを通して学んだ「ひとづくり」や「まちづくり」のノウハウは、カボスというブランドを育てるために大きく役立ちました。
生産施設の開発・改善
1973年に臼杵市で行われた、試験的なハウス栽培をはじめとして、いろいろな技術が開発されるようになりました。
- 丸々として果汁をたくさん含んだ、高品質なカボスを選別する技術。
- 室内を暖めることで、旬から外れた春でも収穫出来るようになった、ハウス栽培の技術。
- 時間がたっても色や香りを損なうことなく、冬でも出荷できるようにした貯蔵の技術。
これらの技術が開発されたことにより、1990年代前半には、1年を通していつでもカボスを出荷できるようになったのです。
まとめ
今回は、カボスが1つの産業として成長するまでの、歩みについて紹介しました。
こうしてみると、カボスが本格的に作られるようになってから、まだ50年しかたっていないんですね。
伝来してから250年の沈黙を破り、大分の特産品となったカボス。
発展の可能性はまだまだ無限大です。